人的資本経営とは、人材を資本として捉え、投資によってその価値を最大限引き出そうとする経営のあり方です。2022年に人的資本経営の指針として、人材版伊藤レポート2.0が発表されて以来、人的資本経営に対する企業の関心が急速に高まりました。
本記事では、どのような人事施策が人的資本を強化し、組織的・財務的な成果に結びつくのか、学術的な研究結果をご紹介しながら解説します。
目次
人的資本経営とは
人的資本経営とは、人材を資本として捉え、投資によってその価値を最大限引き出そうとする経営のあり方です。
人的資本経営はあくまで経営における考え方であり、それ自体が具体的な人事施策を指しているわけではありません。そのため企業は、人的資本経営の考え方のもと、どのような施策で、人材のどのような側面を強化し、何をゴールとするのかを明確にすることが求められます。
参考:経済産業省「人的資本経営~人材の価値を最大限に引き出す~」
人的資本経営が注目される背景
人的資本経営は、2022年の人材版伊藤レポート2.0の発表をきっかけに、企業の関心を集めています。
さらに2023年度には、日本の上場企業に人的資本の開示が義務付けられ、ますます注目されるようになりました。これによって企業は、人材投資の内容や人事施策における成果指標を、有価証券報告書で開示する必要が出てきました。
人的資本経営を実践するためのポイント3つ
人的資本経営は、単純に人材投資をすればいいというわけではありません。人材投資、すなわち人事施策の実施によって、どのような効果があり、どのような組織的成果に結びつくのか、ストーリーを考えることが重要です。
このストーリーを考えるうえで、人的資本の定義や、組織的・財務的な成果に繋がる施策等を理解しておく必要があります。
次の章からは、学術的な知見をベースに、人的資本経営の実施に欠かせない以下3つのポイントを説明します。
- 人的資本とは
- 人的資本・モチベーションの強化と、企業の組織的成果の関係
- 人的資本・モチベーションを強化する人事施策
1. 人的資本とは
本章では、個人の人的資本と組織の人的資本の2つについて解説します。
個人の人的資本
個人の人的資本の定義については、学術的に統一されたものはなく、研究者によって見解は様々です。例として、個人の人的資本には以下のものが挙げられます。
個人の人的資本の例
- ・知識
- ・スキル(技術)
- ・能力
- ・経験
- ・モチベーション
- ・健康 等
以上の例から、研究者によって様々なものが人的資本として用いられてきました。その中で、研究者のPloyhartらは2014年に人的資本の定義を試み、彼らは人的資本を「KSAOs(知識・スキル・能力・その他の特性(性格特性)」としました(※)。本記事では、Ployhartらに倣い、個人としての人的資本を知識・スキル・能力と考えます。
※Ployhart, R. E., Nyberg, A. J., Reilly, G., & Maltarich, M. A. 「Human Capital Is Dead; Long Live Human Capital Resources!(2014)」より
組織の人的資本
企業戦略論の立場から、人的資本を組織の重要な経営資源として位置づけたのが、経営学者のBarneyです。
Barney以前の企業戦略論では、競合他社や市場といった外部環境を分析することで、企業の競争優位性を説明しようとしてきました。しかしBarneyはこうした外部環境に加えて、企業の内部資源の重要性に着目しています。彼は機械や工場のような物的資本に並ぶものとして、「人的資本」を位置づけました。
Barneyは、企業が競争優位性を持ちながら成長し続けるためには、以下の2点が重要であると説いています。
・企業の持つ物的資本や人的資本等が、市場から見て希少であること
・他社の模倣が困難であること
企業の資本がすでに他社も保有しているものであったり、簡単にまねできてしまうものであれば、同じような製品やサービスをすぐに作れてしまいます。これでは市場における競争優位性を維持できません。
人的資本について言えば、他社が保有していない、あるいは簡単にまねできないスキル・知識を持った人材を確保することが重要です。そのような人的資本をベースに、他社がまねできない製品やサービスを作り続けることが、企業の成長を支えます。
2. 人的資本・モチベーションの強化と、企業の組織的成果の関係
本章では、個人の人的資本に着目し、知識・スキル・能力がどのように組織的な成果と結びつくか、研究者Jiangらの先行研究をもとに説明します。そのメカニズムをモデルとして示したのが以下の図です。
参考:Jiang, K., Lepak, D. P., Hu, J., & Baer, J. C. 「How Does Human Resource Management Influence Organizational Outcomes? A Meta-Analytic Investigation of Mediating Mechanisms(2012)」
矢印は相関関係を表し、ブルーは正の相関、グレーは負の相関を表している。また実線の相関が強く、点線の相関は弱い。上記の矢印で示したもの以外にも相関関係は見られるが、わかりやすさのため、一部省略して記載している。
この図から、3つの人事施策が人的資本・モチベーションを通して組織的成果に繋がることがわかります。
たとえば、スキル向上施策を実施することで、従業員の人的資本(知識・スキル・能力等)が強化されます。人的資本の強化は生産性や製品、サービスの品質向上といった業務上の成果をもたらし、最終的に売上高成長率・ROA・ROE等(※)の財務的成果の向上に繋がります。
※ROA:総資産利益率、ROE:自己資本利益率
Jiangらは多数の論文の分析(メタ分析)によって、人的資本・モチベーションと組織的成果の結びつきを導き出しました。
また人的資本の強化は生産性や品質の向上だけでなく、離職率の低下ももたらします。人的資本を持つ人材は組織の中で評価され、昇進していくので、エンゲージメントが高まります。その企業固有の人的資本が形成されていくことで、他社に移りづらくなるという側面もあります。
離職は企業にとって、従業員にかけてきた採用・教育コストの損失でもあります。離職率が低下すれば、そのような損失を防げるので、最終的に財務的成果の向上といえるでしょう。
このように人事施策によって強化された人的資本は、業務上の成果や離職率の低下を通じて、最終的には財務的成果の向上にまで結びつくことが明らかとなっています。
3. 人的資本・モチベーションを強化する人事施策
Jiangらは、前章のモデル図にもあったように、人事施策を以下の3つに大別しています。
人事施策の種類 | 特徴 |
---|---|
スキル向上施策 | ・研修や能力開発等によるスキルの向上 ・高いスキルを持った人材の採用 |
モチベーション向上施策 | ・報酬、福利厚生の充実、雇用の安定等 |
従業員の参加機会を向上させる施策 | ・チームワーク向上施策、職務の設計等 |
これら3つの人事施策は、いずれも人的資本やモチベーションに対し、プラスの影響を与えることが明らかになっています。
スキル向上施策は特に人的資本への影響が大きく、モチベーション向上施策や従業員の参加機会を向上させる施策は、特にモチベーションに与える影響が大きいです。
人的資本経営を実施する際の注意点
本章では、人的資本経営を実施する際の注意点を2つ紹介します。
(1)人事施策と企業戦略の整合性を保つ
人的資本経営においては、人事施策と企業の戦略・方針の整合性が求められます。
これまでの章で、人事施策が人的資本・モチベーションを強化し、組織的成果にまで結びつくことを説明しました。この出発点となる人事施策が有効に機能するには、人事施策が企業の戦略や方針と一致していることが重要です。
たとえばチームワークを重視しながら、人事評価を個人の業績のみで行い、その評価で個人のインセンティブ報酬を高めることは矛盾しています。チームワークを促したいのであれば、チームの成果に応じた評価や報酬も必要でしょう。
人事施策は企業の戦略を実現するための手段です。人的資本経営において人事に求められるのは、事業戦略の実現のために必要な人事施策を考え、実行していく力です。人事は、施策に取り組むにあたって、まず自社や部門の戦略を理解することからはじめなければなりません。
(2)人事施策の達成度を測るKPIを設定する
そして、人事施策が企業目標の達成にどれだけ貢献したかを測る、KPIの設定が必要です。
この考え方は、2023年度より日本の上場企業に対して義務化された、有価証券報告書での人的資本開示にも表れています。企業は指定の項目を開示するだけではなく、自社の事業戦略に合った人事戦略を練り、その目標達成度を測れるKPIの設定が求められます。
組織戦略を意識した人事施策で、財務的成果の向上を
本記事では学術的な知見をベースに、人事施策が人的資本を強化し、最終的に組織の財務的成果に繋がることを解説しました。
人材版伊藤レポート2.0の発表以降、注目度の高まる人的資本経営。人的資本経営は、ただ人に投資をすればよいというものではありません。自社の事業戦略を理解し、最終的に自社が目指す組織的な成果を定め、それに沿った形で人事戦略を考える必要があります。
人事戦略においては、人材のどのような面を強化するのか、目的をはっきりとさせたうえで、KPIや開示項目を定めることが重要です。
企業の戦略や組織として抱える課題は様々であり、学術的な理論だけで人事施策や解決策が決まるわけではありません。しかし、それらを考える際の基礎・枠組みとして学術的な知見を活用することは有効だと考えます。
本記事が、人的資本経営を考えるうえで少しでも参考になれば幸いです。