2026年7月、障害者雇用促進法の改正により、民間企業における障がい者の法定雇用率は2.7%へと引き上げられます。2024年に定められた2.5%から、さらに水準が高まる本改正。企業には、単に「雇う」からいかに「雇い続け、活かす」へシフトするかが問われています。
つまり、法改正を契機に企業が直面する課題は、単なる「採用数の確保」ではなく、「多様な特性を前提とした組織設計」への転換にあります。
しかし現場には、雇用の維持・定着、合理的配慮の整備、キャリア形成など多くの課題が残されています。中でも深刻なのが、業務の確保です。
独立行政法人高齢・障がい・求職者雇用支援機構の調査※1によると、障害のある従業員の業務内容はデータ入力や書類整理、清掃、事務などの定型業務に偏る傾向があります。
多くの企業では、法定雇用率を満たすために、こうした「担ってもらえる業務を先に用意する」形で雇用を進めてきた側面があります。しかしAIやRPAの普及による自動化が進む中、このような「仕事をつくって雇う」手法は限界を迎えつつあります。
では、これからの時代、企業はどのように人材を活かしていけばよいのでしょうか。 そのヒントとなるのが「ニューロダイバーシティ(Neurodiversity)」という考え方です。
ニューロダイバーシティとは、発達障害などの脳や神経の特性を「障害」ではなく「多様な認知スタイル」と捉え、組織の力に変えていくという発想です。
本稿(前編)では、このニューロダイバーシティの基礎概念から、国内外の企業の現状、そして日本企業が組織力を最大化するための「3つの軸」について解説します。
※1 独立行政法人高齢・障がい・求職者雇用支援機構「雇用されている障害者の合理的配慮、職務内容等の実態」2024年3月
1分サマリ
企業は「雇う」から「活かす」段階へ移行し、業務確保・定着支援・合理的配慮など新たな課題に直面している。
・定型業務の自動化が進む中、「仕事をつくって雇う」モデルが限界に。
多様な認知特性を活かすニューロダイバーシティ経営が注目されている。
・ニューロダイバーシティとは、発達障害やADHDなどの特性を「障害」ではなく「人間の自然な多様性」として捉え、組織の強みに変える考え方。
・SAPやJPモルガン・チェースなど海外企業では、特性を活かした採用・支援で生産性や利益が向上。日本でも富士通などが実践を開始。
・日本企業が組織力を最大化する鍵は、「①認知・理解の醸成」「②特性・スキルの見える化」「③合理的配慮のしくみ化」の3つの軸を実践することにある。
目次
ニューロダイバーシティとはー「障害」ではなく「多様性」としての視点 ―
ニューロダイバーシティ(Neurodiversity)とは、脳や神経の発達の違いを「障害」ではなく「人間の自然な多様性」として捉える考え方です。
この概念は1990年代、オーストラリアの社会学者 ジュディ・シンガー(Judy Singer)氏 によって提唱されました。
シンガーは、自身が自閉スペクトラム症(ASD)の特性を持つ当事者として、社会に根づく「定型発達」を基準に人を測る価値観を問い直しました。
そして、自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠如・多動症、学習障害など、発達の特性による違いは「矯正すべきもの」ではなく、「人間が本来持つ自然な多様性」だと主張しました。
つまりニューロダイバーシティとは、「違いをなくすこと」ではなく、「違いと共に生きること」を目指す思想です。
人がそれぞれ異なる認知スタイルや情報処理の特性を持つことを前提に、その違いを受け入れ、社会や職場を柔軟に設計していく考え方といえるでしょう。
海外で進む「成果を生む多様性経営」
特に欧米をはじめとする海外では2015年頃から、主に発達障害をもつ方の雇用の文脈でニューロダイバーシティという言葉が広がり始め、今や多くの企業で関連する取り組みが行われています。
そのきっかけは、2000年代にデンマークで創業したスペシャリステルネ(Specialisterne)という企業でした。
創業者のトーキル・ソネ(Thorkil Sonne)氏は、自閉スペクトラム症(ASD)の特性を持つ息子の観察を通じて、「細部に強い集中力を発揮できる特性が、ソフトウェアテストに適している」と気づきます。
そこで彼は、自閉症のある人材を専門のソフトウェアテスターとして採用し、IT企業向けのテスト業務会社を設立。
実際に高品質なテスト成果を上げ、ハーバード・ビジネス・スクールでも事例研究として紹介されるほどの注目を集めました。
こうした動きに触発され、大手IT企業を中心にニューロダイバーシティ採用プログラムが導入され始めました。以降、取り組みが広がり、現在では金融業や製造業など、多様な業種にも広がりつつあります。
取り組み事例
SAPの「Autism at Work」プログラム
ドイツを拠点とする大手ソフトウェア企業、SAPは、ニューロダイバーシティ(神経発達的多様性)を経営戦略の一環として位置づけ、2013年に「SAP Autism at Work」プログラムを開始しました。
このプログラムは、自閉スペクトラム症を持つ従業員が持つといわれる、高い集中力・細部への注意力・パターン認識能力などの強みを活かすための採用・支援制度です。
従来の面接に代わり、実務課題を通じて特性を見極める独自の選考プロセスと、入社後のメンター制度など手厚いサポート体制が特徴です。
こうしたしくみは、自閉スペクトラム症(ASD)の従業員だけでなく、既存従業員の理解促進やエンゲージメント向上にも繋がっており、組織全体を活性化させています。
SAPは、従業員エンゲージメント(Employee Engagement Index:EEI)が1%向上することで、年間約3,500万〜4,500万ユーロ(約50億円)の営業利益改善に繋がると試算しています。
同社は、企業価値向上に直結する経営戦略であるという明確な信念のもと、ニューロダイバーシティを推進しているのです。
JPモルガン・チェースの「Autism at Work」プログラム
米国に本社を置く大手金融機関JPモルガン・チェースは、2015年から自閉スペクトラム症(ASD)の方を対象にした雇用プログラム「Autism at Work」を実施しています。
ソフトウェア開発や品質保証、パーソナルバンカーなど幅広い職種で採用を進め、開始から半年後には生産性が90〜140%向上、ゼロエラーを達成するなど品質面でも成果を上げました。
採用時には、従来の面接手法を見直し、明確で具体的なフィードバックを重視するなど、自閉スペクトラム症(ASD)特性に配慮した選考プロセスを導入。
さらに、採用後はメンターやコーチが支援する「バディシステム」を整備し、職場定着を後押ししています。この取り組みは、生産性向上だけでなく、社内の多様性理解や文化改革にも繋がっており、他企業のモデルケースとしても注目されています。
このようにニューロダイバーシティは、社会的意義を超え、生産性向上やイノベーション創出をもたらす経営戦略として多くの海外企業で確かな成果を上げています。
では、日本企業ではどうでしょうか。
海外での成功事例が示す通り、ニューロダイバーシティは新たな人材活用の可能性を拓きますが、日本企業ではまだ「取り組みの始まり」の段階にあります。
日本企業におけるニューロダイバーシティの現状
日本でも近年、「ニューロダイバーシティ」という言葉が少しずつ注目を集め始めています。
経済産業省は2022年に「ニューロダイバーシティの推進について」のページを公開し、政府としての情報発信を開始しました。
こうした政府の発信を背景に、企業でもニューロダイバーシティの考え方を取り入れた施策が広がりつつあります。
日本総合研究所が主導する「ニューロダイバーシティ・マネジメント研究会」では、富士通、SCSK、三井住友信託銀行などが連携し、発達特性を持つ学生を対象としたIT業務体験プログラムを展開。
発達障害のある学生の新卒就職率が全体より23ポイント低い※2という現状を踏まえ、ニューロダイバーシティの観点から、就労格差の是正と人材活用の拡大を目指す取り組みを始めています。
一方で、武田薬品の「職場における脳・神経の多様性に関する意識調査」によると、全国のオフィスワーカーの過半数が「ニューロダイバーシティ」という言葉を知らないことも明らかになりました。
日本において認知度はいまだ高くなく、取り組みは一部の先進的な企業にとどまっているのが実情です。
しかし、海外の事例が示すように、ニューロダイバーシティは社会的意義にとどまらず、組織の成果や競争力を高める経営戦略にもなり得ます。日本企業がその可能性を最大限に活かすためには、どのような視点が必要なのでしょうか。
※2 文部科学省「令和6年度大学等卒業者の就職状況調査(令和7年4月1日現在)」、日本学生支援機構「令和5年度(2023 年度)大学、短期大学及び高等専門学校における障害のある学生の修学支援に関する実態調査結果報告書」より日本総研算出
ニューロダイバーシティで組織力を最大化する3つの軸
日本企業のメンバーシップ型雇用には、一人ひとりの適性や状況に応じて配置や業務を調整できる柔軟性があります。この特性は、ニューロダイバーシティの考え方と親和性が高く、推進の基盤として活かせる可能性があります。
ただし、その「柔軟さ」は、必ずしも「戦略としての多様性」に結びついているわけではありません。
制度や現場対応の中で「個々に合わせる」文化はある一方、個々の認知特性や思考スタイルの違いを、組織成果に転換するしくみはまだ十分に整っていない点が課題です。
推進の土壌が整っていても、ニューロダイバーシティの考え方を企業全体に浸透させなければ、せっかくの強みを活かしきれません。人材の多様性を生産性向上やイノベーションに繋げる機会も、埋もれてしまいます。
だからこそ今、日本企業には、自社における多様性を「経営戦略」として明確に発信し、共感と理解を広げていく姿勢が求められます。
具体的に、ニューロダイバーシティ経営を実践するためには、次の3つの実践ポイントが重要です。
1. 認知・理解の醸成
第一の軸は、認知と理解の醸成です。
ニューロダイバーシティの核心は、「人によって情報処理や集中、感覚の受け取り方が異なる」という科学的事実を組織全体で理解することにあります。
従来のダイバーシティ&インクルージョンが性別・国籍・世代など「外的な属性」に焦点が当たりやすかった一方で、ニューロダイバーシティは「内的な認知の多様性」にも注目する点が特徴です。
この違いを全従業員が共通認識として持つことで、単なる「配慮」から一歩進んだ、「成果につながる多様性活用」への意識改革の土台を築くことができます。
具体的には、経営層・人事・マネージャー向けのワークショップやeラーニングで、発達特性を持つ人の働き方事例や、チーム成果への影響を紹介することが有効です。
2. 特性に応じた人材配置とスキル可視化
第二の軸は、従業員の特性や強み、キャリア志向を可視化し、適材適所の配置を行うことです。
「どのようなスキルを持っているか」だけでなく、「どのように思考し、どう環境に反応するか」を理解することが、ニューロダイバーシティ経営における適材適所の出発点です。
たとえば、集中力や空間認識に強みを持つ人、反対にマルチタスクや雑音に弱い人など、神経特性ごとのパフォーマンス傾向をデータで捉えれば、感覚や印象に頼らない配置判断が可能になります。
そのためには、適性診断ツールや1on1面談を通じてスキル・特性・志向を体系的に収集し、HRテクノロジーで職務要件とマッチングするしくみが不可欠です。
従来の経験則中心のマネジメントに分析的視点を加えることで、人材活用の精度と再現性を高められます。
3. 日々の業務で活かす合理的配慮
第三の軸は、日常業務における環境づくりとコミュニケーションの再構築です。
感覚特性、注意特性など、特性によって仕事への反応は大きく異なります。
たとえば、以下のような「成果を出すための合理的配慮」をしくみとして整えることが重要です。
・雑音や照明の刺激で集中力が下がる人には静かな作業環境を整える
・口頭指示では混乱しやすい人には書面で明示する
・即時回答が苦手な人には事前資料や時間的余裕を与える
これは「特別扱い」ではなく、誰もが自分の特性を理解し、力を発揮できる環境をつくるためのマネジメントです。
実際、こうした配慮のしくみは、SAPやJPモルガン・チェースの事例でも示されているように、個々の特性に応じた制度化により、生産性向上や社員エンゲージメントの改善に寄与しています。
一見、これらの取り組みは「どのダイバーシティ経営にも通じる」と思われるかもしれません。
ニューロダイバーシティの本質は、「見えにくい認知特性の違い」を組織設計の前提に置く点にあります。この考え方を実践することで、柔軟さという日本企業の強みを、「多様な脳の使い方を生かす経営戦略」へと発展させる可能性があります。
ここまで、法定雇用率2.7%時代に求められるニューロダイバーシティの基本的な考え方と、それを組織力強化に繋げる「3つの軸」をご紹介しました。
ニューロダイバーシティの本質は、「見えにくい認知特性の違い」を理解するだけでなく、「違いを成果に繋げる」ことにあります。
しかし、この「特性に応じた人材配置」や「日々の業務で活かす合理的配慮」をマネージャーの感覚や個別対応に任せていては、戦略的な運用は困難です。
後編では、この「特性の見える化」をHRテクノロジーでどのように支え、組織的なしくみとして定着させていくかを、具体的な「4つの推進ステップ」とともに詳しく解説します。



