社内公募、リスキリング、副業・兼業の解禁——。
企業のキャリア支援施策は、この数年で大きく前進しました。
しかし現場部門では、「制度は整っているのに活用されない」「キャリアへの意欲が静かに下がっている」という声も少なくありません。
なぜ、制度があっても従業員の行動に結びつかないのか。
その背景には、制度と行動の間にある「見えない壁」の存在があります。
この「見えない壁」とは、キャリアの方向性が描けない、相談相手がいない、心理的エネルギーが不足しているなど、行動に移る前段階での「心の準備」が整わない状態を指します。
制度そのものではなく、こうした心の準備不足こそが、従業員の行動を阻み、「キャリアの停滞」や「静かな退職」につながる要因となっているのです。
前編では、この“見えない壁”の正体と構造を整理しました。
中編となる本稿では、「見えない壁」にAIがどのように働きかけるのか、具体事例としてAさんの変化とともに解説します。
1分サマリ
・制度が整っていても行動に結びつかない理由は、キャリアの方向性・相談不足・心理的エネルギー欠如という「見えない壁」にある。
・AIは人の代わりではなく、「中立な壁打ち相手」として前段の整理を支える技術であり、本音を言語化する安全な場を提供する。
・Aさんのケースでは、AIとの対話を通じて モヤモヤが言葉になり、1on1が報告から対話へ転換し、再び動ける状態を取り戻した。
・欧米ではすでに“内面支援AI”が拡大し、日本企業でも相談のしづらさや静かな退職に対しAI活用の余地は大きい。AIが担うのは「迷いをほぐす」まで、決めて動くのは人の役割である。
AIは「中立な壁打ち相手」として見えない壁にアプローチする
前編では、キャリア支援制度を活用する手前で足が止まってしまう「見えない壁」がどのように生まれるのかを、Aさんの事例を通して見てきました。
Aさんが動けなくなった要因は、以下3つの「見えない壁」、つまり前段プロセスの欠落が複合的に作用していたことでした。
① 方向性を言語化できない(キャリアの目的地の曖昧さ)
② 相談・期待調整の不足(対話の不在)
③ 心理的エネルギーの枯渇(安心感の不足)
人事のサポートや上司との1on1での対話が、届き切らない領域はたしかに存在します。制度や活用機会があっても、前段が整わなければ人は動けません。
この現象は、Aさんだけではなく多くの従業員に共通しています。
AIが小さな一歩を後押ししたケース
停滞と孤独感が強まっていたAさんは、「このままでは精神的に厳しい」と感じるようになっていきました。
とはいえ、上司には弱音を出しづらい。同僚には言えない。人事も忙しそうで相談しづらい。
そんな行き場のない気持ちを抱えたAさんが最後に選んだのは、会社が任意で提供していたキャリア支援AIを「とりあえず使ってみる」という小さな一歩でした。
「人には話しづらいけれど、AIなら言えるかもしれない」。そんな軽い気持ちで始めた壁打ちが、のちにAさんの行動を動かすきっかけになります。
AIの心理的安全性
AIは利害から切り離された相手であり、上司や同僚には言いづらいことを安心して言語化できるという特徴があります。
「弱みを見せたくない」、「評価に響くかもしれない」、「忙しそうで相談しづらい」。こうした背景から、キャリアに関する相談ができず、モヤモヤだけが蓄積していくケースは珍しくありません。
その点、AIに対してなら、評価や状況を気にせず本音を話せます。
一方で、「人工知能に感情まで読み取られたくない」「AIに分類されるのは嫌だ」「大事な話は人間に聞いてほしい」という感情面での抵抗が一定数存在することも事実です。
Aさんも最初は同じでした。「どうせ感情がない機械だし、大したことは返ってこないだろう」。と半信半疑で使い始めました。
しかし、使う中でAさんが気づいたのは、AIのこのような特徴でした。
• 否定しない
• 比較しない
• 結論に誘導しない
• 言葉を奪わない
「話してもいいかもしれない」という小さな安心感は、誰かに相談する前の、「前段のプロセス」として最適でした。
AIは最初から信頼される存在ではありません。使ううちに距離が縮まり、徐々に安心して話せる相手になっていく。その過程こそが、制度の手前で止まっている行動を再び動かす鍵になります。
AIは「整理・言語化・対話準備」まで
ここで誤解してはいけないのは、AIが担うのはあくまで 「整理 → 言語化 → 対話準備」までということです。
期待値の調整や配置判断、継続的支援といった「伴走での支援」は、上司や人事など、人が担うべき領域です。
これらの役割を人とAIが分担したときにこそ、キャリア支援における最大の効果が生まれます。
欧米企業では「内面支援AI」がすでに拡大している
従業員の内面支援は、人だけではカバーしきれない領域であることから、欧米企業でのAI活用が急速に拡大しました。
パンデミック以降、リモートワークの拡大により孤立や不安、バーンアウトが増加し、企業は生産性維持や離職抑制の観点から、従業員の内面支援に積極的に投資しています。
従業員の内面を支えるテクノロジーは、主に次の3つのアプローチで導入されています。
1.認知行動療法(CBT)ベースの対話型AIケア
臨床心理学の知見(認知行動療法など)を学習したAIチャットボットが、24時間365日、従業員の不安やストレスを傾聴します。誰にも知られずセルフケアできる「心の救急箱」として、多くの企業で採用されています。
2.全従業員向けAIコーチングプラットフォーム
従来は経営層に限られていたコーチングを、AIによって一般従業員にも提供可能にしたものです。AIが個人の課題を特定し、最適な学習コンテンツを推奨したり、相性の良い人間のコーチをマッチングすることで、キャリア支援とメンタル支援のハイブリッド化を実現しています。
3.コミュニケーションデータによる組織コンディション分析
チャットツールやメールの送受信データ(メタデータ)をAIが解析し、バーンアウトリスクを匿名で可視化します。深刻化する前に問題を把握し、適切な対応を打つ企業が増えています。
欧米ほど顕在化していませんが、日本企業でも「相談のしづらさ」「評価への懸念」「本音を出せない文化」が存在し、行動の停滞や静かな退職に繋がることがあります。
そのため、制度と行動の間で立ち止まる従業員の「内面整理」を支える役割として、AI活用の可能性はますます広がるでしょう。
ここまで見てきたように、AIは行動に至る前の整理プロセスを支えるという点で、大きな可能性を持っています。
では、その支援は実際にどのような変化を生むのか。前編で触れたAさんのケースを、行動の再開という視点で改めて辿ります。
Aさんはどう変わったのか ― 行動が再び動き出すまで
AIを利用し、内面の整理をし始めたAさん。すると、徐々に自分でもつかめていなかった感情の輪郭が浮かび上がってきました。
① モヤモヤが“言葉”になった
AIとの対話を重ねるうちに、Aさんはようやく自分の状態に気づきます。
「仕事量ではなく、役割の曖昧さに疲れていた」
「評価がどう扱われるかわからない不安が重くのしかかっていた」
「相談できないことが孤独感に繋がっていた」
なんとなくの違和感として積み上がっていたものが、AIとの対話によって「意味のある言葉」へと変わりました。この気づきが、久しぶりに上司との1on1で役割や期待値を話してみようと思うきっかけになります。
② 1on1が「報告」から「対話」へ変わった
AIは、整理された内容をもとに「何を伝えるべきか」「どこをすり合わせるべきか」「どこから話せば安全か」という順番を示してくれました。
これまで「迷惑をかけたくない」「希望した手前、弱音は見せられない」と核心に触れることを避けていたAさんでしたが、伝えるべき論点が明確になったことで、1on1は建設的な対話へと変わりました。役割や期待値が再定義され、兼務比率も現実的な範囲に調整されました。
③ エネルギーが戻り、再び動けるようになった
「自分の価値が再確認できた」「兼務の意味が理解できた」「やるべきことが見えた」。
輪郭が見えたことに加え、適切な支援が行われたことで、Aさんの気持ちは次第に前向きになっていきました。
「辞めたいわけじゃなかったんです。ただ、自分がどこに向かっているのか見失っていただけでした」。Aさんはこう振り返りました。
AIが提供したのは、正解や判断ではなく、Aさんが「再び動ける状態」を取り戻すための前段の支えでした。こうした「見えない壁」の手前の段階を整える支援は、人だけでは届けきれない領域でもあります。
Aさんの変化が示すのは、AIが従業員の行動を直接変えるのではなく、人との対話をより建設的にするために、土台をつくる存在になり得るということです。
後編では、こうした支援を組織全体に広げるために、企業がAIをどのように導入し設計すべきか、注意点やステップを解説します。


