「キャリアの停滞」や「静かな退職」はなぜ起きる?(前編)|制度が機能しない理由と「見えない壁」

ビジネスコラム

人が真価を発揮する、
人事・経営・はたらく人のためのメディア

最終更新日

「キャリアの停滞」や「静かな退職」はなぜ起きる?(前編)|制度が機能しない理由と「見えない壁」

社内公募、リスキリング、副業・兼業の解禁——。
企業のキャリア支援施策は、この数年で大きく前進しました。

しかし現場部門では、「制度は整っているのに活用されない」「キャリアへの意欲が静かに下がっている」という声も少なくありません。

なぜ、制度があっても従業員の行動に結びつかないのか。
その背景には、制度と行動の間にある「見えない壁」の存在があります。

この「見えない壁」とは、キャリアの方向性が描けない、相談相手がいない、心理的エネルギーが不足しているなど、行動に移る前段階での「心の準備」が整わない状態を指します。

制度そのものではなく、こうした心の準備不足こそが、従業員の行動を阻み、「キャリアの停滞」や「静かな退職」に繋がる要因となっているのです。

前編では、この「見えない壁」の正体と構造を整理します。

1分サマリ

・制度が整っても行動につながらない背景には、「方向性の不明確さ」「相談不足」「心理的エネルギーの枯渇」という「見えない壁」が存在する。

・制度の前段で必要な「心の準備」が整わないと、施策は機能せず、「キャリアの停滞」や「静かな退職」として表面化する。

・企業は制度整備に加え、従業員が“自分のキャリアを言語化し、相談し、調整できる状態”をつくる支援が不可欠である。

キャリア支援が進む一方で、現場に広がる停滞感

人的資本経営の浸透を背景に、企業では従業員の自律的なキャリア形成を支援する制度が着実に整いつつあります。

社内公募、副業・兼業、リスキリングなど、多様な制度が導入され、従業員が自分のキャリアを主体的に選択できる環境が広がっています。

従業員1,000名以上の大手企業で社内公募は 約 43.4% が導入済み
「社内におけるキャリア開拓に関するアンケート調査」Thinkings株式会社
https://thinkings.co.jp/news/20251029_report/

副業・兼業 約 66.7% が容認・予定 経団連 アンケート調査 (5,000名以上)
https://www.keidanren.or.jp/policy/2022/090.pdf

企業におけるリスキリング施策の実態調査(2025年3月版)
パーソルイノベーション株式会社 Reskilling Camp(リスキリングキャンプ)
https://www.persol-innovation.co.jp/news/2025-0402-1


しかし、制度がどれだけ整備されても、従業員の行動が必ずしも伴うわけではありません。キャリアの方向性を描けず立ち止まる「キャリアの停滞」。意欲が低下しながら表面化しにくい「静かな退職」。

こうした兆候は、多くの企業で確認されています。

リクルートのキャリア自律意識調査※1によれば、「自分はキャリア自律ができている」と回答した従業員はわずか24.0%。

多くの従業員が「キャリアの方向性を言語化できず、行動へ踏み出せない状態」にあると示されています。

さらに、Gallupの調査※2では、米国で労働者の50%以上が「心理的に職場から離れている状態」にあることが報告され、「静かな退職(Quiet Quitting)」という概念が広く知られるようになりました。日本とは労働文化が異なるものの、意欲の低下や関与の希薄化という点では通底する傾向が見られます。

では、なぜ制度があっても従業員の行動に結びつかないのか。

その背景には、制度の有無だけでは説明できない、「前段プロセス」の不足という要因が存在しています。

制度の存在を知り、関心を持ち、自分ごととして捉え、選択し、行動に移す——。この前段が欠けると、制度と行動の間にギャップが生まれます。そしてそのギャップが、「キャリアの停滞」や「静かな退職」として可視化されていくのです。

※1「企業情報の開示と組織の在り方に関する調査」株式会社リクルート
※2「In New Workplace, U.S. Employee Engagement Stagnates」Gallup

ギャップの正体=制度と行動の間にある「見えない壁」

制度と従業員の行動の間には、制度を整えただけでは越えられない「見えない壁」があります。

制度そのものが充実していても、従業員が「自分ごととして捉える」「使ってみようと思える」状態にならなければ、行動には繋がりません。

本稿では、この 「制度はあっても従業員が一歩を踏み出せない状態」 を「見えない壁」と呼びます。

では、「見えない壁」はなぜ生まれるのでしょうか。従業員が制度を活用するためには、本来「自分はどうしたいのか」「どの選択肢が合うのか」「上司とどう調整するのか」といった、意思の整理や周囲とのすり合わせが欠かせません

しかし、この前段プロセスは制度として提供されにくく、多くは従業員の自己判断に任されています。

企業側もHRBPの設置、1on1、キャリア面談などで支援していますが、対象の広さやタイミングのずれ、相談への心理的抵抗などから、全員に行き届かせるには限界があります。

こうした背景から、「見えない壁」は次の3つの要因で形成されます。

① キャリアの方向性や望む姿が言語化できない

制度を活かすには、「自分はどこに向かいたいのか」という目的地を描くことが重要です。しかし、方向性が定まらないまま制度と向き合うと、公募も学習機会も「チャンス」ではなく「負荷」として感じられてしまいます。

実際、Works Human Intelligenceが実施した調査※3でも、「キャリアの悩みや不安を抱えているが、具体的な行動には移せていない」人が約6割にのぼりました。

また、悩みを人に話せなかった理由として「自分の気持ちの整理ができていなかったから」と回答した人も約3割に達しており、多くの従業員が“行動以前の内省・自己整理の段階”でつまずいている実態がうかがえます。

これは、制度があっても動けない背景に、「方向性が描けない」という前段の壁が存在していることを示しています。

② 相談・期待調整・伴走役の不足

制度の利用には、上司との期待値のすり合わせや業務調整など、相談しながら進めるプロセスが欠かせません。

しかし現実には、管理職は多忙で、人事が全員をフォローすることも難しく、従業員自身も「相談すると評価に影響するのでは」と不安を抱えがちです。

Gallupの調査※2でも、「静かな退職」の主要因として「対話不足」「期待の不一致」が挙げられています。

相談できる相手がいないことは、従業員にとって大きな「見えない壁」となり、迷いが行動を止める要因になります。

③踏み出すための心理的エネルギーが不足

制度を活かすには、前向きに踏み出すための心理的エネルギーが必要です。しかし、評価の不透明さ、承認の欠如、関係性のストレスといった要因がある環境では、制度に目を向ける余裕すら生まれません。

エン・ジャパンの調査※4でも、離職理由の上位として「人間関係」「給与」「会社の将来性」「評価・人事制度への不満」が挙げられています。

土台となる安心感が揺らぐと、制度活用より「まず今をどうにかしたい」気持ちが優先され、行動する余力が生まれません

これもまた「見えない壁」の一つです。

これらの要因は単独で生じるのではなく、複数に重なって生じます。外から見れば「これまで通り働いている」ように思えても、内側ではエネルギーが減少し、行動を起こすより「現状維持」を選びやすくなります。

「制度は整っている。それでも動けない。」という、気持ちの整理が十分にできていない状態が、制度と行動の間に横たわる「見えない壁」の正体です。

では、この「見えない壁」は現場部門でどのように表れるのでしょうか。典型的なケースとして、Aさんの事例を見てみましょう。

※3 「年代別キャリアの悩みと相談相手に関する意識調査」Works human Intelligence
※4「本当の退職理由 調査(2024)」エン・ジャパン株式会社

事例:兼務に挑戦したAさんに起きたこと

素材_キャリアの停滞(前編)_202512.jpeg

Aさんは、従業員数千名規模の大手企業に勤める30代前半の従業員です。人事企画部門で研修制度や学習支援を担当し、従業員の成長を後押しする仕事にやりがいを感じていました。

社内公募制度やキャリア支援イベントが整備され、1on1も定期的に行われるなど、「自律的なキャリア形成」を掲げる企業です。

そのような環境の中でAさんは、「もっと従業員の声を拾い、エンゲージメント向上に関わりたい」「社内広報と兼務したい」という思いを上司に共有しました。熱意や貢献意欲は評価され、組織としても人事と社内広報の連携強化という課題感があったことから、兼務は前向きに承認されました。

しかし、この時点では、「なぜ社内広報なのか」「どのような役割を担うのかといったイメージが双方で十分にすり合わせられておらず、具体像が曖昧なまま兼務がスタートしました。

兼務を続けるうち、Aさんの中で以下のようなギャップが大きくなっていきます。

役割と期待が不明確

依頼内容は「人事と社内広報の連携を強化してほしい」。しかし目的・範囲・成果基準は共有されず、判断軸がない状態に。

評価の扱いが見えない

成果を出しても、それがどの評価に反映されるのか不透明なまま時間だけが進む。

相談できる相手がいない

人事からは「それは社内広報の仕事」、広報からは「あなたは人事の人」。どちらにも居場所がない感覚。

本音を出せない

「自分で希望した手前、弱音は見せられない」。1on1でも言い出せず、話題は仕事の進捗確認ばかりに。

こうした内面の変化は、周囲に気づかれることなく進行していきました。外から見えるのは変わらず働くAさん。しかし内側では、意欲とエネルギーが静かに削られていきます。

「もう頑張らなくてもいいかもしれない」
「このまま目立たず働ければ…」
「転職サイトを見るだけなら自由」

行動ではなく、意欲のほうが静かに離脱していったのです。

Aさんに起きていたことは何か?

Aさんのケースには、先に整理した3つの「見えない壁」すべてが関わっていました。

① キャリアの方向性や望む姿が言語化できない(方向性が曖昧)
② 相談・期待調整・伴走役の不足
③ 踏み出すための心理的エネルギーが不足


制度はあった。機会も与えられた。それでも動けなくなった。

これが、制度と行動の間に生じる「見えない壁」の現場での姿です。

では、この壁に対して、企業はどのように寄り添うことができるのでしょうか。人だけでは支えきれない領域に、いま新しい選択肢としてAIが活用され始めています。

中編では、Aさんの歩みを辿りながら、再び行動が起きるまでのプロセスと、人とAIが担う役割を整理していきます。

この記事を書いた人

ライター写真

角川 亜由美(Tsunokawa Ayumi)

広報として、人事領域のトピックや制度運用に関する情報発信を担当し、記事企画やメディア対応を通じて得た経験を蓄積。現在はその経験を活かし、WHI総研の研究員としてユーザー企業の声や市場動向を調査・分析し、人事課題に関する知見を発信。

COMPANY